──接続は解脱である、管理は最適化である、盲信は機能である──
2059-感情、記憶、想い……人の心さえデータ管理される巨大都市、NEO。
政府によって支配されている人々は、『幸福の幻覚』によって偽りの感動を刷り込まれていた。
そこに住まう人々に価値はなかった。
中央都市サントラルを囲むスラム街はオイルと下水と、それから腐敗と血肉の臭いで満ちている。凡そ人が、生物が生きていける環境になく、一呼吸すれば臓腑が浸食され朽ちていく。
だが、それでも、人々はそこに住まうのだった。
彼らは不可触であり、部品であり、贄だった。サントラルの栄華を支えるためにその身を削り、死んでいく。生まれた理由もまた等しい。彼らの命は生まれた時から彼らのものではなくサントラルのためにある。長く形成されてきた社会機構は疑われることもなく、誰もが日常として享受していた。それは、KAIも例外ではない。
「……」
治安維持局 音響解析官 KAI。
彼は表情を崩すことなく、椅子に座ってモニタを眺めていた。近年、NEOに生じている『音の歪』の調査をしているのである。
『音の歪』はNEOの管理統制を損なうものだった。同時多発的かつ不規則に生じる謎の音波が観測されたのは14年前。政府発表によれば、思考を狂わせ妄想を促進させる危険なノイズであるとのことであったが、その波長は規則的な音波であり、ノイズと呼ぶにはあまりに法則的である。つまりそれは『音楽』である可能性が非常に高く、KAIも報告書の中で仮説として検証を申請したことがあった。棄却された理由は上記の通り、『思考を狂わせ妄想を促進させる危険なノイズであるため』である。
「聴かないと分からないだろう」
その時の記憶を思い出したのか、KAIは一言呟く。
それは愚痴というよりは歯痒さが漏れたようなものだろう。音響解析官としての責任と使命を彼は忘れたことがない。
NEOのためにー。
それが、それしか、彼にとって生きる理由はなかった。
KAIは両親の顔を知らない。
気が付けば教育を受け、音響解析の仕事に従事するようになっていた。NEOのために働き役に立つ。日々刷り込まれる社会的な理想と個の否定。如何に人は愚かで、自由がどれほど不幸を生むか。人間は管理されるべきであるか……絶対的な教えが彼を縛っている。生まれ、従事することこそが人の定め。それがKAIの行動指針であり指標。スラムに住む人々と違うのは、清潔な住居と三食が用意されている点。サントラルから価値が与えられているということこそが、彼にとっての生きる意味であった。
「……」
溜息とともに視線を落としたKAIは、脳波同期機能を起動させ目を閉じた。受信するデータは『精神安定用音源』である。
解析の進捗が芳しくなく、KAIは焦っていた。
成果をあげなければ自身の価値がなくなる。無能な自分に居場所はなく、このままでは朽ちて死ぬ場合があると彼は信じているのだ。
死ぬのはいい。だが、国家繁栄の礎となれないのは堪えられない。何としてでも『音の歪』の正体を突き止めなければならない。
KAIの脳波からはそんな意識が読み取れた。言葉少なく、顔色も変えずに、胸の焦燥ばかりが加速していく。使命感に焦がれた心は尋常ならざる情動に駆られていることだろう。その心理的特徴はNEOの教育によるものではなく彼特有の先天的な性質であると遺伝子解読によって証明されている。だからこそ、NEOはKAIを音響解析官に任命したのである。
「死ぬならば、解析した後でいい」
そう言葉を落としたKAIが同期された音を感じると、体は弛緩し緊張が解除されていく。脳に直接作用する音の効果はドラッグよりも強力で効果が高い。機械化された体には化学式よりも原子振動の方が影響が出るのである。それ故にNEOは音、音楽、とりわけ『歌』に対する規制を強めていた。
NEOはこの事実を公に発表はしていない。音による人格操作の懸念を抱かせないためである。人々の耳に届き、脳に作用する音楽はすべて、NEOにとって都合のいい影響を及ぼすものだった。
そう、NEOに住む人々は、本当の音楽を、歌を知らない。
その熱と、力と、純然たる想いの形を。
「……!」
KAIは目を見開いた。聴きなれた音の連続が途切れ得体の知れない聴覚情報を取得したからである。
それは荒々しく、繊細で、高低音を響かせ、続く。
波形となった音波はKAIの脳を揺らし、不動だった手足を動かした。KAIの中では生まれて初めて音楽による感動が芽生え、感情の発露を実感したに違いなかったが、彼はその心の動きの名前を言語化できない。だからだろう。こう呟いたのは。
「……メンテナンスが必要だ」
立ち上がったKAIは治安維持局の出口へ向かって歩き始めた。機械化された部位の調整を検討しているようであったが、その足取りは速く、とても不調な人間とは思えない。心身の統合が取れていないのは明白であったが本人さえ自覚できていない情緒を他者が推し量ることはできはしない。すれ違う者は数人いたが、誰もがKAIに異変があるとは思わなかっただろうし、また、仮にそう見えていたとしても話しかける人間は恐らくいない。サントラルの治安を維持するにあたり、無駄な会話は不必要だからである。
だが、何事にも例外は存在する。その例外がKAIを見つけたのは偶然であったであろうが、呼び止めたのは必然であった。
「おや、KAIさんじゃないか。そんなに急いでどこへ行くんだ」
「……」
彼の名はTETRA。治安維持局の中で武力行使を行う実働部隊の一員である。
「最近忙しいようだが、”音の歪”について、何か分かったのかい?」
「……貴様には関係のないことだ」
「馬鹿を言うなよ。俺たちが何をしているか知っているだろう? 鎮圧で大変なんだよ。音の歪でおかしくなった市民のなぁ」
TETRAは下卑た声を出して口角を上げた。嘲笑と軽視。KAIを軽んじ、愉悦を感じている。
感情の制御が行われている社会でTETRAの性格は異質といえる。盲信と従順。そして抑鬱。支配のために治安維持局に勤める者の性格は強制されているのだが、TETRAの人格は壊れており、嗜虐と破滅願望が欲望の根底にあった。他者を貶め、嬲り、殺す。それこそが彼の生きている意味であり生存理由である。
当然これはNEOが意図して人格破壊を行った結果である。
破綻者、倒錯者は時に想像を超えた痛みを他者に与える。相対する人間の言動を読み取り、圧倒的な苦痛と絶望を導き出し実行する。機械や統計では導き出せない、人の悪意のみが表現できる地獄……それは市民への見せしめとなり権威の象徴となる。現に、TETRAの所属する部隊が任に当たった際、そのエリアの暴動は著しく減少していた。惨状を見たものは皆こう言うのだ。「自分たちが間違っていた」と。
「最善を尽くしている。貴様は貴様の仕事をすることだ」
KAIの表情は変わらない。それでも、隠しきれない不快感が露わとなっていた。「この男はNEOのためでなく自身のために市民を虐殺している」そんな印象が、明確な嫌悪となって表れている。だが、その敵愾心さえもTETRAにとっては餌のようなものだった。
「それもそうだ。さっきは忙しいと言ったがな。あれは単なる皮肉だ。できればもう少し手こずっていてほしいとさえ思っているんだ。その方が楽しめるからな」
「……」
「知ってるか? スラムの連中は馴れ合いを大切にしているんだ。先日、奴らの目の前で子供を壊してやったよ。ゆっくり時間をかけてな。実に見ものだったぜ。何もできない奴らの顔はな。これだから、この仕事はやめられない」
「……」
KAIは言葉なく背を向けた。その様子を見て、TETRAは最後に吐き捨てる。
「近く、ニシ区で粛清が実行される。なんでもネオンシティから上層の人間が直接手を下すそうだ。興味があるなら来るといい。一緒に見学しよう」
捨て台詞に似た声にKAIが反応することはなかったが、心中で何を言っているのかは容易に想像できた。「くたばれ」か、それに類するものである。出口へ向かう足音が、雄弁に拒絶を示していた。
この時TETRAに出会ってしまったのはKAIの不幸である。その不幸もまた運命である。
運命とは当人に関係なく、人を引き寄せる。まるで、機械仕掛けのように。
治安維持局の外、サントラルの光がKAIを包んだ。
都市の明かりは絶えることがない。常に全てを照らし闇を排除している。夜空の星は霞み、神話を紡ぐこともない。サントラルからの供給によって生きる人々は創造する力を失っていた。
思考も感情も市民には必要がない。ただそこにいる。与えられる幸福を貪る。それ以外を望むのは罪であると、彼らは信じている。闇の奥を覗くこともなく。
「……ニシ区か」
光の中で、KAIが呟く。
TETRAの言葉が事実であれば、近く、ニシ区に住む人間の多数が虐殺されることとなる。
それはNEOの日常であり、KAIの見てきた、疑いようのない世界である。
だが、「ニシ区」と声に出した時、KAIの顔に影が差した。普段から表情を変えない彼が、感情を表したのだ。明確な変化変調の兆し。KAIの心の中で何かが起こっている。本人さえ知覚できない何かが。
「2番ゲートへ」
オートハイヤーを手配したKAIが行き先を告げると、音声認識機能が作動し「承知シマシタ」と返した。
「2番ゲートはニシ区に繋がってオリマス。強盗、殺人、誘拐などには十分ご注意クダサイ」
機械的な警告が流れる中ハイヤーは走り続ける。眩い明かりはいつしかまばらな街灯へと変わり、ついには心許ないビーコンが寂しく点滅するだけとなる。スラムに近付くにつれて闇は広がり、深くなっていく。
「……」
自分以外誰もいないハイヤーの中でKAIは、車窓に反射する自分の顔を見ていた。普段鏡を見ない彼が果たして自分の姿を認識できるのか。そもそも個というものに意識を向けたことがあっただろうか。NEOに生かされ、組織の一部として存在しているだけだった彼が、命じられないまま、自らの意志によって行動している。その行動原理について何を思うのか、彼の表情から読み取ることはできないが、どうやら彼自身も理解できていないようであった。
「どうして、こんなところにいるんだ。俺は」
ふとこぼした言葉に、音声認識機能が反応した。
「行き先を変更いたしマスカ?」
「……いや、このまま進んでくれ」
ハイヤーは、依然進む。
2時間ほど経過した頃、車両が留まりドアが開いた。
「決済をお願いいたしマス」
デバイスで支払いを済ませたKAIはニシ区へと繫がる2番ゲートの前に立ち、見上げた。空まで届くほどの巨大な壁は、扉というより障壁といった方が腑に落ちる。
ゲートは重厚で無機質であり、無慈悲で、あらゆる不純物を阻害し道を阻んでいる。音響解析官であるKAIはゲートを自由に通る権限を有していたが、サントラルからスラムへ出たことはなかった。巨大な障壁として機能している壁をこうして間近で見るのも初めての体験である。
「……」
認証を終わらせゲートを潜る。ニシ区へ行ってどうするのか。「全員逃げろ」と叫ぶつもりなのだろうか。
できるわけがない。
そう、できるわけがないのだ。KAIは、NEOのために生きているのだから。
それでも彼は足を止めなかった。ゲートの中、肌にまとわりつく黒い湿気をそのままに真っすぐに進み出口へと辿り着くと、朽ちた光景が広がっていた。
「酷い臭いだ」
オイルと下水と、それから腐敗と血肉の臭いで満ちている。それでも確かに、この場所には人がいる。新しい足跡、乾いていない血液。人間が生活している痕跡が残されている。死した土地に、滅んだ大地に、生きた人がいるのだ。
KAIは一瞬躊躇したようだったが、奥へと入っていった。足を取られながら、彷徨うように前へと進む。その内にぽつりと小さな光が灯っていて、二人の人影が見えた。照らされる顔は、二つとも恍惚のまま固まっている。NEOが供給している、『偽りの幸福』……分子振動による感情支配によって二体の人間は、そこにない幸福を感じているのだ。
「……」
サントラルの外、スラムの生活、NEOの姿……彼にとってこの現実は理解しているはずだった。正しいはずだった。だが、不思議と拳が強く握られている。振り下ろす先などどこにもないというのに。
「……!」
感情を誤魔化すように目を背けたKAI。
その視線の先である。
一人の少女の姿が、彼の意識を奪った。
青く、長い髪。
体躯に不釣り合いな左手は恐らく義手だろう。
少女は瓦礫の山の頂上から遥か彼方を望んでいた。
暗闇の先、荒廃の続くスラムの先を、見通すように。