少女は足元のランタンの灯を浴びてボゥっと白く浮かび上がっており、一目しただけではホログラムのようだったが、体の作りに合わせて光と影が浮かび上がり、確かな人の形を表しているのだった。
「……」
息を呑み、見入る。
吸い込まれたようにKAIの視線は少女に向けられていた。彼の知る、スラムに住む人間とまるで違う姿と雰囲気。あるはずのないものがそこにあるという一種の神秘のような体験がKAIの身体機能を停止させたのだった。
「しまった……!」
舌打ちの後、KAIの焦りが暗闇に落ちる。彼の視線に気がついた少女と目が合ったのだ。
「こんばんは! いい夜だね!」
低く響く声で、少女は叫んだ。「そうですね」とも「そうかな」とも言い出せず、KAIは言葉なく頷く。相手は少女であったが用心深くその動向を探っている。
「待ってて! 今行くから!」
少女はランタンを持ち、危なげなくガラクタの山を下ってKAIをめがけて駆けていく。障害物のように道を遮るジャンクを華麗に避けながら進み、気が付けばKAIの目の前。互いの息遣いや肌の匂いまで分かる距離、体温さえも感じ取れる間合いに、二人はいた。
「ニシ区の人じゃないよね? 他のところから移送されてきたの?」
爛漫な声が一面に咲く。深く、奥行きのある発声はそのまま体に浸透するようにクリアで、溌溂としている。聴けば誰もが耳を傾けたくなるような、不思議な魅力を秘めた声だった。
「……どうだろうね。まぁ、そうかもしれない」
言葉を濁し、KAIは俯く。真実も虚偽も述べない曖昧な態度である。
KAIは嘘が苦手であった。任務の上で止むを得ず騙すことはあるが、その際も表情や声色に表れる。スラムで自身の立場を晒せば不要な問題が起こるだろうという判断だったのだろうが、KAIの苦心は一挙手一投足にみられた。
「大丈夫? 顔色がよくないけど……」
そんな様子を心配したのか少女はさらに近付いてKAIの顔を覗き込み、答えを待たずに言葉を続けた。
「すぐそこに休めるところがあるんだ! 案内するね!」
スラムの人間は仲間意識が強い。何も知らない新参者を放っておけるはずもなく、少女は右手を伸ばしてKAIの腕を掴んだ。
KAIは終始黙っていたが、少女がそのまま引っ張っていくから進む他なかった。無言のままに歩幅を合わせる二人。独特の空気がその場にまとわりつくも、風に流され、悪臭と一体になっていく。言葉を交わさないでも目的地には到着するのだろうが、「それではつまらない」とでもいうように、闇の中で少女の声が連なっていく。
「この辺りはまだ治安がいいから安心できるんだ。ニシ区って、他の区画と比べてアンダーグラウンドな部分が多くて……でも、他の区よりずっといい。キタ区では、人として生きていくことができないから……」
スラムの人間は無許可で区の移動はできない。管理の関係上移送されることはあるが、まだ歳の若いこの少女がその対象となるというのは基本的には考えられない。その点についてKAIが気づいていないわけがなかったが、それよりも、彼女の話に意識が向いていた。
「人として生きていくことができないというのは、どういう意味なんだ?」
「みんな、サントラルから提供されるデバイスでおかしくなっちゃうんだ」
「デバイス……」
「そ。体にくっつけると、変になっちゃうやつ」
「……」
少女のいう”デバイス”とは幸福の幻覚を起こすための振動増強装置である。このデバイスを通す事により支配音響の音圧が組み込まれた電子回路に作用。セロトニンを大量分泌させ多幸感などを生み出すのである。つまり麻薬と同じであり、依存性と中毒性もまた等しい。人を支配するのにこれ以上有効なものはないだろう。
KAIは当然、幸福の幻覚について知っている。
その効果、作用について理解している。
ただ一点、その目的だけが彼にとって理外であった。
「幸福の幻覚は、暴徒にだけ使われているはずでは……」
「ううん。そんなことないよ!」
少女はKAIの腕を離して振り返り、力強い声をあげてかぶりを振った。
「ここにはあまりサントラルの人間は来ないけど、たまに巡回があって、無理やりデバイスを使うんだよ! 暴れるような力も意志もない人に向かって!」
「そんな……」
サントラルに住む人間は皆、KAIが述べたように暴動鎮圧用に幻覚を見せられていると知らされている。等しく欠落があり、社会に順応できない不適合者。それがスラムに住む人間であるというのがサントラルに住む者の持つ共通認識であった。故に、逸脱すると、管理が必要であると、そう教えられているのである。
だからこそKAIは少女の姿に驚き、困惑していた。
彼女の姿、言動、感情、すべてが、サントラルに住む人間と変わらない。政府がいうように欠落があるとすれば、それはどこにあるのか。
逡巡。
KAIの心の中には疑念が生まれたであろう。少女の言葉が真実だとしたら、KAIの信じてきたものすべてが偽りとなる。
スラムの人間はサントラルの人間と変わらない。皆心があり、普通の人間として生きている。にもかかわらず、一方的に虐げられているのだとしたら。
初めて会ったばかりの少女の言葉を鵜呑みにしていいものかどうか。しかし嘘を吐いているようにも見えない。
では、本当にサントラルは、罪のない人間を……
頭の中ではそんなノイズが走っていたに違いない。何を信じるべきか、疑うべきか。いや、KAIは、少女が本当のことを言っているという確信があるようだった。問題はその根拠の拠所である。心では少女を信じている。だが、その心について彼は何も分かっていない。理屈を超越した感情を彼自身が受け入れられないのだ。
だが、その理屈を重ねることで一つ思い出す。
「……粛清」
「え?」
「あ、いや、すまない。なんでもないんだ」
KAIは思わず、呟いた言葉を誤魔化した。
粛清
それは治安維持局でTETRAが言っていた言葉である。
『ニシ区で粛清が実行される。なんでもネオンシティから上層の人間が直接手を下すそうだ』
もしその話が事実であるとすれば、目の前の少女も対象となるかもしれない。粛清は区画そのものを処理する名目で行われる大規模な虐殺である。その場にいる者は性別も年齢も、善悪も関係なく殺される。それは正義なのか。それは正しいのか。KAIは苦悶の表情を浮かべる。
「あ、ごめんね。気分悪い時にこんな話しちゃって」
「……いえ、大丈夫です」
少女の声により、答えを出せない自問から抜け出したKAIは「大丈夫です」とだけ答えた。そこからまた無言となり、歩き、止まる。どうやら目的地に到着したようだったが、道中では一言もなかった。
「ついた。ここで休めるよ」
道が開けた先の広場の中央には、かつて噴水として機能していたであろうモニュメントが設置されていた。数十年、数百年……どれくらい放置されているのか分からないほどの年代ものであったが崩れずに形を保っていて、周りには鉄くずやボロキレで作られた椅子が並べられていた。そこに「座ってよ」と勧められたKAIは少し躊躇したような表情を浮かべたが、少女の純粋な笑顔の前に屈し、そのまま腰を落とした。
「どう? ニシ区は」
「どうだろう……そうだな、思ったよりも……」
「思ったよりも、いいところでしょう」
「……」
「昔はもっと酷かったんだって。周りに死体がいっぱいあって、いろんなものが捨てられて、とても人が住めるような場所じゃなかったんだよ。でも、みんながサントラルの人間と戦って、なんとか暮らせるようになったんだ」
「……」
「その時私はまだ小さくて何の役にもたてなかったんだけど、もし、次なにかあれば、絶対に戦う。サントラルの人間と」
戦うというその言葉がどんな意味を持つのかKAIは理解している。命を賭した、文字通りの決死の抵抗。彼女の敵はサントラルであり、KAI自身の所属する治安維持局である。
「……そうですか」
少女の発言は治安維持法に抵触する危険な言葉だった。KAIの立場であれば当然捨て置くわけにはいかない。逮捕して連行し拘留。あるいは現地での処置が求められる場面である。処置とは、現場判断での死刑。少女を殺すことがKAIの職務となるわけだが、自らの居場所を守るために抵抗することが悪なのかと、KAIはやはりそう考える。
KAIの中にある正義で測れば少女の行動は正当な防衛として判断されるものである。だからこそ動けない。それがサントラルの法に反すると知っていながら、判断を先送りにしているのだ。
それからしばらく少女の話は続いたが、KAIは頷いたり首を振るくらいしかできなかった。きっと何を喋っていたのかさえ覚えていないだろう。ただ反射のように「あぁ」とか「うん」と呟いてばかりいた。
様子が変わったのはほどなくである。二人が座る広場に向かって、複数の足音が聞こえてきた。その方向を見てみると、幾重にも重なる人影。輪郭はどんどんとはっきりしてきて、KAIが視認できる距離まで近付く。ボロボロの服に、露出した肌には幾重もの傷。そして、施されている違法なサイバネティクス。その男達の集団は、KAIに臨戦態勢を取らせるのに十分な出で立ちであった。警戒心と殺気が、KAIから放たれる。
その緊張が途切れたのは少女の声が弾けた瞬間であった。
「みんな!」
彼女は立ち上がると一目散に男たちに向かって走り、集団に混ざると嬉しそうに声を張り上げた。
「おかえりなさい! どうだった?」
「携帯食料と水があったよ。これでしばらくは食えるだろう」
「よかった! 怪我はない?」
「大丈夫。それより、あの男は……」
視線がKAIに集まる。疑惑と不安。一同の目には、そんな感情が込められている。
「うん、他の区から移送されてきたんだって」
「本人がそう言ったのか?」
「え?」
「彼が、そう言ったのか?」
「あ、えっと……」
語気に圧された少女がしどろもどろとなると、男は「分かった」と一言落とし、KAIに近づいていく。
「あんた、どこから来たんだ」
威圧するような問いに、KAIは答える。
「どこでもいいだろう。答える必要があるのか?」
「俺はHEXA。とりあえず、名前だけでも教えてくれないか」
「……」
「穏便にいこう。慣れない土地で疲れているのも分かるが、ここで揉め事を起こすのはあんたも望むところじゃないだろう。違うか?」
「……LIE」
そう答えたKAIの声は僅かに震えていた。
「LIE……LIEね。OK、LIE。ここに来たからにはあんたも仲間だ。それでいいだろう? みんなも」
HEXAと名乗る男がそういうと、周りの人間は異物を見るような目を向けながら小さく首を垂れた。KAIは依然、警戒を解かずその様子を伺う。
だから気が付かなかったのだろう。
自らのデバイスに届いていた、治安維持局からの緊急連絡に……